「表象システム」とその周辺:20
前回わたしたちは,表象システムを導入しました.
この枠組を用いることでこれから,この連載の最初に提示した問題
「緩い概念」という問題に1つの形式的な表現を与えてゆきたいと思います.
ところで,わたしたちが「緩い概念」という問題に着目したそもそものきっかけは,
障害という概念のあり方にありました.
つまり,障害という概念を有意義に捉えようとするとき,
その働きの「緩さ」を無視することはできない,
というのも「緩さ」というこの特徴を通じてこそ,
障害という概念に特徴的な働きのひとつが示されているからである,
と考えたからでした.
たとえば「障害とはなにか?」という問いを考えてみましょう.
わたしたちは多くの場合この問いに対し,
現在直面している状況をうまく説明できる答えが得られればそれで当面満足し,
それ以上この問いを深く突き詰めて考えようとはしないだろうと思われます.
つまり「唯一の正しい答え」が得られることを,
この問いに対してそもそも期待してはいないように思われます.
と同時にわたしたちの多くは,にもかかわらず
この問いを問うこと自体を無意味な行為だとはみなさないだろうことも確かだと思います.
つまり,たとえ誰もが納得する「唯一の正しい答え」が得られないとしてもなお,
それを問うことに意義を見出しうるようなものとして
「障害とはなにか?」という問いはあるのです.
そして,このような問いを誘発せずにはおかない点にこそ
「障害」という概念の特徴的なはたらきのひとつが示されていると考えることができるでしょう.
概念の「緩さ」を考えることは,そして
「障害」という概念のこのような働きを捉えようとするとき,
おそらく不可欠になります.
というのも「障害とは何か?」といった問いは,
多くの場合,対象との対応関係を改めて問い直すものとして提示されるからです.
たとえば,これまでそれを「障害」であるとは考えたこともないような経験の存在に気づくこと,
あるいは逆にこれは典型的な「障害」だろうと思っていたことが実は単なる思い込みであったらしいことに気づかされること,
このような変化をもたらす契機として
おそらく「障害」という概念は機能しているのです.
ところで,わたしたちが概念の緩さを考えるうえで注目したもう1つの構造に選好がありました.
つまり,わたしたち自身の選択行動を適切に表現しようとするとき
「コーヒー」や「オレンジジュース」といった概念のもつ「緩さ」が
やはり問題になるということを,たとえば推論の非単調性という問題を通じて
確認してきたのでした.
一見すると「コーヒー」や「オレンジジュース」という概念のあり方は
「障害」と大きく異なるようにも思えます.
たとえばそれは「H2O」といった概念と同じ「硬さ」を持つようにも思われます.
というのもまず第一にこれらの概念は,だれもが納得するような対象を
目の前に置き,指差すことができるように思えるからです.
実際わたしたちは「障害とはなにか?」とは問うても
「コーヒーとはなにか?」と問うことはまれでしょう.
万が一聞かれたとしても,目の前にコーヒーを置いて,
それを指差し「これがコーヒーです」と答えればことは済むようにも思われます.
しかし問題はそう単純ではありません.
すでに繰り返し確認してきたとおり,
わたしたちはどのようなコーヒーでも「コーヒー」であるとみなすとは限らないからです.
たとえば「コーヒー」が欲しいと思っている人に
ゴキブリの入ったコーヒーを差し出しても満足されないでしょう.
あるいは逆に「ゴキブリは入っていません」と但し書きしてしまうこともまたかえって逆効果であるに違いありません.
そして,先のような単純な指差し行為だけでは
「コーヒー」という概念の使用に関して前提される
このようなニュアンスを伝えることはできないのです.
つまり,ただ「コーヒー」なるものを指示するという行為自体にも
それぞれの文脈に応じて既に複雑な要因が作用しているにもかかわらず,
あたかもそのような複雑さが存在しないかのように錯覚する程度に,
その「緩さ」はこれらの概念の使用において根深く前提されてしまっているのです
(そしてこの「緩さ」は,程度の差こそあれ,それが使用される限りにおいて
「硬い概念」においても前提されざるを得ない点にも注意が必要です).
そして,まさにこのような錯覚においてこそ,
わたしたちの用いる概念の「緩さ」の,より重要な働きが示されていると考えることができるのです.
つまり,概念の使用そのものによってもたらされる実践的な作用とでも言うべき機能がそれです.
もし「コーヒー」にゴキブリが入っていてはいけない,
という条件だけが求められるのであれば話は簡単です.
すべてのコーヒーを確認して「ゴキブリは入っていません」
というラベルを貼ればよいだけだからです.
重要な点はむしろ「ゴキブリは入っていない」と但し書きしてはいけない,
という点にあります.
というのもそれは「ゴキブリが入っているかもしれない可能性」を意識させてしまうからです.
つまりわたしたちは単に「ゴキブリは入っていない」ことだけを求めているのではなく
「ゴキブリが入っているかもしれない可能性」の存在そのものをそもそも意識せずにいられることを欲しているのです.
このような欲求は,それでは,どうすれば実現できるでしょうか?
答えは簡単です.
ゴキブリの存在そのものを消し去ればよいのです.
実際,ゴキブリがいなくなれば
「ゴキブリが入っている可能性」など気にとめる必要もなくなりますし,
「ゴキブリは入っていません」と,わざわざ断る必要もなくなるからです.
つまり,「ゴキブリは入っていない」ことだけではなく,
そう但し書きされてすらいないようなあり方として「コーヒー」なる概念を用いること,
このことは,
ゴキブリの存在しない世界のあり方そのものを相手に対し求め,
働きかけることを含意していると考えることができるのです.
もちろん,この世界からゴキブリの存在そのものを消し去ることなどできようはずもありません
(し,たとえできたとしてもすべきではないでしょう).
しかし,それをあたかも存在しないかのように目の前から消し去る程度のことならできるでしょう.
そしてその試みは,少なくともわたしたちの生活環境に関する限り,
十分に成功しているように思われます.
実際わたしたちは,
多くの場合ゴキブリが入っている可能性に心煩わされることなく
コーヒーを楽しむことができているはずです.
さて,ここで本題に戻りましょう.
わたしたちは「コーヒー」という概念の含む「緩さ」を検討することで,
その機能の実践的な側面を確認してきました.
同様の機能は,そして,「障害」という概念の使用においても確認できます.
あるいはむしろ,「障害」という概念においてこそ,
それはより本質的に機能していると考えることができるでしょう.
たとえば本連載の第1回目に確認した例を思い出しましょう.
ここでS(筆者をここでは便宜的にSと書くことにします)は,
鏡のないエレベーターに乗ることが
車椅子を利用している人にとっては障害の経験になりうることを,
Nの指摘を通じて理解することができたのでした.
Nに指摘されるまでSは,そして,
鏡のないエレベーターに乗ることが障害たりうるなどということを
想像すらしたことがなかったと言えるでしょう.
というのもSの周りには,
そのような経験をしている親しい知人が,それまで一人もいなかったからです.
つまり,Sの生活環境に,そのような経験は存在しなかったのです.
しかしそのような経験は確かに存在します.
Nは,そして,Sが想像だにしなかったそのような経験が現に存在し,
そのような経験を強いられている人が存在する事実を,Sに指し示したのです.
このときSは,自分がそのような経験の存在に気づいてこなかった事実に気付かされるだけではなく,
次のような事実にも思い当たらされます.
この事実に気づいていなかったのはおそらく自分だけではない,という事実です.
というのも,誰もがこの事実に気づいているのであれば,
鏡のないエレベーターなど,そもそもこの世に存在するはずがないからです.
「障害」という概念が機能するのは,そして,まさにこのような場面においてなのです.
Nが強いられている障害の経験は,既に確認したとおり,
建物の設計にかかわった人々が車椅子を利用する人々の生活を想像できなかったことによって準備され,
生み出されると考えることができるでしょう.
つまり,特定の経験に対する無知と想像力の欠如こそが障害を生み出す原因になっていたのです.
そして,このような経験そのものを浮かび上がらせる概念として
「障害」はまず第一に機能するのです.
「障害」なる概念の機能は,しかし,これだけには留まりません.
無知によって生み出されるこのような経験として「障害」を使用するとき,
わたしたちは「障害」の経験の具体的な対象を1つ知る以上の事実に向き合わされることになるからです.
すなわち,他ならぬわたしたち自身がこの「障害」の経験を
これまで知らずに生活していることが可能であったという事実に,です.
この事実は,わたしたちの単なる無知以上のことを意味します.
つまりそれは,わたしたちが「ふつう」に生活している限り,
誰かが現に経験しつつある「障害」を知らずにいることが可能であること,を示しているからです
(実際Sは,Nに指摘されるまでこの障害の経験に気付かずにいることができていましたし,
鏡のないエレベーターも現に存在し続けています).
これまで何の不自由も感じずに利用してきた環境が,誰かの不利益になりうる,
この事実を知らなかったという事実が確かに存在する.
ここに,「わたしたちがまだ知らない「障害」の経験が存在しうるだろう」
という,第3回にSが抱いていた感覚が具体的な根拠をもつことになるのです.
そして,このような感覚に根拠を与えることこそが
「障害」という概念を具体的に使用することの果たすもう1つの重要な働きなのです.
今回わたしたちは,
概念の使用を通じてもたらされる機能の2つの対照的な側面を確認してきました.
一方は,ある対象の存在を隠蔽するように働き,
他方は,存在しないことにされている対象の存在を明るみに出すように機能するものでした.
対照的に機能する両者にも,しかし,共通していることが少なくとも1つあります.
それは,概念を使用することそれ自体が,
わたしたちの世界のあり方そのものを規定し,形成するという事実です.
つまり,前者においてはある対象が存在しないように,
後者においては隠蔽された経験の存在を可視化するように,
それぞれ世界のあり方そのものが形成されていると考えることができるのです.
あらゆる概念は程度の差こそあれ「硬く」もあり「緩く」もあります.
もし概念が「硬い」ものとして前者のように使用されるならば,その限りで,その対象は世界において隠蔽され続けるでしょう.
しかし同時に,隠蔽されているこの対象を世界の明るみの下に引き出すのもまたこの同じ概念なのです.
この概念の「緩い」使用こそが,それを可能にするのです.
このような視点に立つときわたしたちは,そして,
「障害とは何か?」という問いに「唯一の正しい答え」が得られないとしてもなお,
それを問うことに意義を見出しうるものとわたしたちがみなしている理由を理解する
ひとつの解釈を得ることができます.
つまり,このような問いを問うことでわたしたちが問うているのは,おそらく,
わたしと他者がともに生活する世界のあり方そのものなのだ,
という解釈がそれです.
わたしたちの暮らす世界が,特定の人々だけを暗黙のうちに排除するようになってはいないか?
わたしたちの理解は,これらの経験を十分に捉えられているだろうか?
このような問いを問うことを通じて
わたしたちは「障害」の概念のあり方を絶えず変化させ続けていると考えることができるでしょう.
そして,「障害」の概念をこのように具体的に使用する事を通じてわたしたちは,
世界のあり方そのものをわたしたち自身にとって「よい」と納得できるものへ
変えていこうとしているのだろうと思われます.
もちろん,わたしたち自身にとって「よい」と納得できるものは,
あらかじめ与えられたものではありません.
それは,わたしと他者との関わりの中から探り当て,形成してゆくしかないものでしょう.
このような営みの一つとして,また「障害とは何か?」という問いもあるはずです.
と同時に,
この問いは常に特定の文脈において問われざるを得ないため,
そこから得られる答えが場当たり的なものにならざるを得ない点にも注意が必要です.
その答えが,別の文脈に照らして判断するとき不適切な思い込みを含みえてしまうということもまた,
それを「緩い」ものとして使用する限り,避けることのできない可能性だろうと思われます.
「障害」の概念のあり方そのものが世界のあり方を規定し,
形成するものであることを考えるならば,更に,
この問いに対する答えそのものが,
逆にある特定の人々を排除する結果を生み出すことすらあるでしょう.
そして,そのような危険を予め知ることは,
わたしたちが「ふつう」に暮らしている限り,多くの場合できないのです.
「障害とは何か?」という問いが「唯一の答え」を持つことがありえず,
終りを迎えることもありえない理由の1つは,おそらくここにあります.
つまりその問いは,
不適切な思い込みを含まない答えの存在を確証できないため,
既に得られた答えそのものに対し,絶えず,
同じ問いを繰り返し問い直すことを強いるのです.
その問いが問い直されるごとに,そして,
わたしたちが当たり前に前提している「よい」もまた揺さぶられるのです.
○坂原樹麗 (さかはら きり)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員
○佐藤崇 (さとう たかし)
東京大学大学院経済学研究科 特任研究員