知られていないことのやっかいさ (西倉実季)

「アルビノ殺人」恐れ、1万人が避難 アフリカ南東部

アフリカ南東部のタンザニアとブルンジで、生まれつき色素を持たず皮膚の色が白い「アルビノ」の人々約1万人が、殺人被害を恐れて政府が設置した避難所などに逃げ込んでいることが、国際赤十字の報告で明らかになった。

両国では、「アルビノ」の体には特別な力が宿るという伝統的な考えから、臓器や体の一部など売却する目的で、アルビノの人々が殺されるという悲劇が後を絶たない。2007年以来、タンザニアでは少なくとも44人、ブルンジでは14人が殺されている。

(2009年11月30日 CNNニュース)

 「アルビノ」とは、常染色体劣性の遺伝性疾患である。全身のメラニン色素をまったく、またはわずかしかつくることができない。そのため、皮膚は白く、目の色は灰青色、髪の毛や体毛は白や金色など、外見に大きな特徴がみられる。眼球の色素も不足していることから、遺伝タイプによって異なるが、視力障害をともなうことが多い

 「やっぱり実際に起きていることなんだ」。アフリカでのアルビノ殺人については多少知っていたが、現実の確かな出来事として認識できたのは、インターネットでこのニュースを目にしたときだった

 アルビノ殺人を知ったのは、アメリカのNPO団体「Positive Exposure」の活動について調べている過程だった。ニューヨーク在住の写真家リック・グイドッティが1997年に設立したPositive Exposureは、遺伝性疾患をめぐるスティグマの解消と無知の改善をめざして、アルビノなどの疾患をもつ人々を写真に撮影し、その作品を「肯定的に見せる(positively expose)」という活動を続けている。この団体がとくに力を注いでいるのが、アフリカでの教育や啓蒙である。というのは、迷信が根強く残るアフリカのある地域では、アルビノの人々が深刻な被害にあっているためである。たとえばタンザニアでは、アルビノは神秘性を帯びており、その身体部位が「魔法の薬」や「縁起もの」と考えられているため、アルビノの人々が虐殺の対象となっているという。また、ジンバブエでは、アルビノの人と性交渉をするとHIV/AIDSを治すことができると信じられているため、レイプ被害が報告されている。

 日本はというと、さすがに殺人は起きていないとはいえ、アルビノが一般に「(正しく)知られていない」という意味では似たような状況にあるのではないだろうか。アルビノの人々の社会生活や心理はほとんど研究されていないうえ、日本で当事者団体が設立されたのはごく最近のことである。2008年に「日本アルビニズムネットワーク」が活動を開始する以前、アルビノの人々はまさに「少数者以前の孤立者」(*1)だった。学術研究や当事者活動が立ち後れたこともあり、アルビノに対する社会的な認知はきわめて低い。「アルビノ」という言葉は聞いたことがある人でも、それがどのような疾患なのか、アルビノの人々がどのような社会生活を送っているのか、正しく理解している人はけっして多くはないだろう。その目立つ外見とは裏腹に、集団としてのアルビノの人々はこれまで不可視化されてきたのである。

 知られていないというのは、当事者にとってさまざまな「やっかいさ」(*2)をもたらす。たとえばある女性は、学生時代に飲食店のアルバイトに応募したところ、「金髪に染めている」と誤解され、面接にさえ応じてもらえなかったという。その外見から「ガイジン」と勘違いされることも頻繁にあるそうだ。

「ねぇ、あの人、ガイジン?」
「えー、違うんじゃない? だって顔立ちがガイジンじゃないよ」
「でも、あの髪の色だよ。肌もすごく白いし」
「うーん、どっちかなぁ」

 これは、彼女が再現してくれた街角ですれ違う人たちの会話である。また、ある男性が直面しているのは、弱視者という存在があまり知られていないがゆえのやっかいさだ。向こうから歩いてくる人の顔がはっきり見えないため、知り合いとすれ違っても、自分からあいさつすることができない。しかし、弱視の人は一見しただけでは視覚障害者だとはわかりにくいため、相手には無視をしたと勘違いされたり、「ろくにあいさつもできない無礼なやつ」とよくない印象を持たれてしまうのである。

 もちろん、アルビノの人々は、こうしたやっかいさにただ悩まされているだけではない。先述した日本アルビニズムネットワークは、無知や誤解のせいでアルビノの人々やその家族が多大な不利益を被ってしまう状況を何とかするべく、アルビノに関する正しい知識を社会に発信していく活動を展開している。知られていないことを知らせていくこと。たしかに、アルビノの人々が置かれた状況を改善していくためのごく初歩的な取り組みにすぎず、その先をどうしていくかがむしろ重要なのかもしれない。しかし、困難を経験している人々の苦しみや存在さえもが認識されず、また認識されていないことがまさに問題であるとき、「知らせていくこと」は状況を切り開く確かな一歩となるだろう。苦しみや存在の不可視化に抵抗することに研究としてどう関わっていけるか、答えはすぐには見つかりそうにないが、考え続けていきたいと思っている。


  1. これは、顔に疾患や外傷のある人々による当事者団体「ユニークフェイス」にかんする岡知史(上智大学教授/セルフヘルプ・グループ研究)の表現を借りた。
  2. 倉本智明, 2006,『だれかふつうを教えてくれ!』理論社, p. 68.

西倉実季 (にしくら みき)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

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選好の形成(1) (坂原樹麗・佐藤崇)

「表象システム」とその周辺:21

わたしたちは前々回,わたしたち自身の認識(必ずしも単調性を満たすとは限らない認識) を表現するための枠組みとして,表象システムを導入しました. この表象システムを用いることでわたしたちは,この連載の当初の目的であった, 「ゴキブリは入っていないコーヒー」において観察される選好の変化,および, 「障害」の概念の使用において観察される概念の「緩さ」を記述する枠組みを提示してゆきたいと思います. 今回は,選好の変化を記述するための準備として,次回と2回に分けて, ある種の認識作用の結果として選好が形成される仕組みを表象システムを用いて定式化してゆきたいと思います.

わたしたちはこれまで,オレンジジュースとコーヒーの例を用いることで, わたしたち自身がどちらを「欲しい」と判断するか, という認識のあり方を確認してきました. 他方で選好とは,この連載の第2回にも確認した通り, 財などの選択肢の間の「好み」を表現した数学的な概念でした. わたしたちはこれまでこの連載において両者をとりたてて区別してきませんでしたが, 今回からこの両者を明確に区別します.つまり, 特定の欲求からある認識作用を媒介として形成される構築物として選好を捉え直すのです.

わたしたちがこれから前提にするのは,以下の3つの構造です. すなわち,欲求,知識,観察の3つがそれです. そして,これらの3つの構造の間の相互作用によって選好関係が形成される,と考えるのです. 大雑把にまとめるとこういうことです. つまりまず,観察されたある対象が,知識を媒介として,欲求された対象と結びつけられるとき, この対象は「欲求を満たす」とよびます. このときそして,この対象は「欲求を満たす」ことができない他の対象よりも選好される (そのような選好関係が形成される)と考えるのです.

具体的に考えてみましょう.ここでは連載第2回で検討した以下の選択問題を考えます.

選択問題1:aとbのどちらが飲みたいですか?
a:オレンジジュース
b:ゴキブリは入っていないコーヒー

ここで与えられた選択肢を,まず,それぞれ異なった「観察」によって表現します. つまり,選択肢aについては,以下の観察Oによって,

|=O オレンジジュース
1

選択肢bについては,以下の観察Oによって,

|=O ゴキブリは入っていない コーヒー
1 1

それぞれ表現します. これらの観察を,それぞれ観察された対象とよびます.

次に,これらの観察された対象が満たすべき「欲求」を導入します. この欲求をわたしたちは,そして,理論によって表現します. たとえば「甘いものが欲しい」という欲求 D を表現するために, わたしたちは,以下の制約を用います.

|-D 甘い

つまり,{甘い}というタイプの集合の上に定義された理論 D =〈{甘い}, |-D〉 によって,欲求を表します. そして,この欲求の構造をもとにして, この欲求が指し示す対象を,以下のような分類 Cla(D) によって与えます.

|=Cla(D) 甘い
〈甘いもの〉 1

この分類のトークンである〈甘いもの〉は, この欲求 D の制約を満たす全てのトークンによって構成される分類であることに注意してください. このように,ある理論 T (正確には T の正則閉包)から, その制約を全て満たす全てのトークンによって構成される分類を一般に, 理論 T の対象と呼び,Cla(T) で表します.

最後に「知識」です. わたしたちは知識を,欲求と同様に,理論によって表現します. つまり,たとえば「コーヒーは苦い」「オレンジジュースは甘い」「オレンジジュースは苦くない」 そして「コーヒーはオレンジジュースではない」と考えているエージェントの知識を, 以下の制約を含む(最小の正則な)理論 K =〈{コーヒー,オレンジジュース,苦い,甘い}, |-K〉によって表現します.

            コーヒー |-K 苦い,
        オレンジジュース |-K 甘い,
  オレンジジュース,苦い |-K
コーヒー,オレンジジュース |-K

なお,わたしたちは以下で, エージェントは必ずしも知識の全ての制約を思い浮かべているわけではないものとします. つまり,限られた注意の範囲のもとで意識される制約のみを考えるものとします. 具体的には,たとえば欲求されるタイプ「甘い」と 観察されたタイプ「オレンジジュース」のみに注意の範囲が絞られている場合, この範囲を便宜的に

Da = {甘い,オレンジジュース}

というタイプの集合で表します. そして,その範囲に含まれる K の制約のみで構成される知識(の正則閉包)を「K|Da」で表記し, 「K の注意の範囲が欲求Dと観察Oに制限された知識」と呼ぶことにします. また,この知識には,上記の K の制約のうち,以下の制約のみが含まれる点にも注意してください.

        オレンジジュース |-K|Da 甘い.

知識に関連して,最後に, 知識から形成される特殊な分類を導入しておきます. 欲求の場合同様,まず知識 K|Da から形成された対象 Cla(K|Da) を考えます. これは,以下で与えられます.

|=Cla(K|Da) オレンジジュース 甘い
〈甘いオレンジジュース〉 1 1
〈甘い非オレンジジュース〉 0 1
〈甘くない非オレンジジュース〉 0 0

この分類 Cla(K|Da) から,次に, 観察の対象 Oと同じタイプをもつトークンのみを抜き出します. このようにして構成された分類を以下では CogO(K|Da) で表し, 欲求 D ,観察 O,および知識 K から形成された認識の対象と呼ぶことにします. ところで,Oのトークンは「オレンジジュース」のみをタイプに持ちましたから, ここでの認識の対象 CogO(K|Da) は以下で与えられることになります.

|=CogO(K|Da) オレンジジュース 甘い
〈甘いオレンジジュース〉 1 1

ところで認識の対象には, 観察と欲求の範囲内で知識の制約と整合的なトークンのみが含まれています. このような意味において,この対象を, ある限定された範囲で知識の構造を表現した分類と考えることができます. この分類を,特に認識の対象と呼ぶのは,このような理由によります.

さて,以上の道具立てを用いることで, どの選択肢が「欲求を満たす」ことができるか表現することができるようになります. ここでは「甘いものが欲しい」という欲求 D を抱いているときに 選択問題1を与えられた状況を考えてみましょう. 選択肢aを提示されたとき,知識はまず Da の範囲に制限されると考えることができます. つまり,「甘いものが欲しい」という欲求と, 観察によって与えられた「オレンジジュース」というタイプにのみ 注意が絞られるような状況です.

Da に注意の範囲が制限された知識は,K|Da で表されました. そして,この知識から,上に示した認識の対象 CogO(K|Da) を形成することができます. このとき,観察の対象 O と,欲求の対象 Cla(D) の間に, 認識の対象 CogO(K|Da) をコアとした (同じタイプ同士を対応させる)チャンネルを形成することができます. このチャンネルは,以下の図式で表現することができます (ただし「オレンジジュース」を「オレ」と略記している点に注意してください).

イメージ

このチャンネルのもとでは,観察された対象aが 「オレンジジュースは甘い」という知識の制約から形成された認識の対象 CogO(K|Da) を媒介して, 「甘いもの」である欲求の対象 Cla(D) に接続されていることが確認できます. つまり,認識を通じて形成されたこのチャンネルを通じてこのエージェントは, 「オレンジジュース」として観察された対象 O を 「甘いもの」として認識することができているのです. そして,このように, 観察の対象が認識を通じて形成されたチャンネルを通じて欲求の対象と接続されるとき, この観察の対象は「欲求を満たす」と言うことにします.

このチャンネルは,また,それぞれの分類の内部の構造を無視することで, 以下の簡単な図式で表現することもできます.

イメージ

次に,同じ選択問題で与えられた,もう一つの観察の対象である O について考えてみましょう. ここでエージェントの注意の範囲は,やはり同じく欲求されるタイプ「甘い」に加えて, 選択肢bによって観察されたタイプ「コーヒー」によって構成されると考えることができます. この範囲をここでも便宜的に

Db = {甘い,コーヒー}

というタイプの集合で表すことにします. エージェントの認識は,この場合それゆえ, Db に範囲を制限された知識 K|Db によって形成されることになります.

ここで注意すべき点は,知識 K が, 「甘さ」と「コーヒー」というタイプの間に些細ではない制約を1つも含んでいない点にあります. このため,知識 K|Db から形成される認識の対象 CogO(K|Db) は, 以下の通り,2種類のトークンを含むことになります.

|=CogO(K|Db) コーヒー 甘い
〈甘いコーヒー〉 1 1
〈甘くないコーヒー〉 1 0

そして,認識の対象 CogO(K|Db) がトークンを2つ含むため, Oの場合とは対照的に, 観察の対象 O と 欲求の対象 Cla(D) の間にチャンネルを形成することはできません. つまり,同じタイプ同士を対応させるチャンネルを形成しようとしても, 〈甘くないコーヒー〉を対応させるための適切なトークン (情報射の条件を満たすトークン)が欲求の対象 Cla(D) の中には存在しないため, Cla(D) から CogO(K|Db) への情報射を形成することができないのです. この様子を,ここでは以下の図式で表現してみました (ただし,ここでは「コ」で「コーヒー」を,「非甘」で「甘くない」をそれぞれ略記している点に注意してください).

イメージ

このように,観察の対象と欲求の対象の間に認識を媒介したチャンネルが形成できないとき, この観察の対象は「欲求を満たすことができない」と言うことにします. なお,この図式も,それぞれの分類の内部の構造を無視することで, 以下のような簡単な図式で表現することができます.

イメージ

分類の内部の構造を無視した2つの図式を比較してもらえば分かるように 「欲求を満たす」ことができるか否かの違いが,ここでは, 欲求の対象からの情報射の有無によって区別されています. 認識を通じて形成される選好の構造を捉える際, 情報射のこの有無が大きな役割を果たすことになりますので注意しておきましょう.

今回は,欲求,知識,観察の対象をそれぞれ与えることで, 「欲求を満たす」ということを形式的に表現する方法を確認してきました. 次回は,この表現を用いることで認識から選好が形成される仕組みを確認してゆきたいと思います.


坂原樹麗 (さかはら きり)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

佐藤崇 (さとう たかし)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

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概念の使用 (坂原樹麗・佐藤崇)

「表象システム」とその周辺:20

前回わたしたちは,表象システムを導入しました. この枠組を用いることでこれから,この連載の最初に提示した問題 「緩い概念」という問題に1つの形式的な表現を与えてゆきたいと思います.

ところで,わたしたちが「緩い概念」という問題に着目したそもそものきっかけは, 障害という概念のあり方にありました. つまり,障害という概念を有意義に捉えようとするとき, その働きの「緩さ」を無視することはできない, というのも「緩さ」というこの特徴を通じてこそ, 障害という概念に特徴的な働きのひとつが示されているからである, と考えたからでした.

たとえば「障害とはなにか?」という問いを考えてみましょう. わたしたちは多くの場合この問いに対し, 現在直面している状況をうまく説明できる答えが得られればそれで当面満足し, それ以上この問いを深く突き詰めて考えようとはしないだろうと思われます. つまり「唯一の正しい答え」が得られることを, この問いに対してそもそも期待してはいないように思われます.

と同時にわたしたちの多くは,にもかかわらず この問いを問うこと自体を無意味な行為だとはみなさないだろうことも確かだと思います. つまり,たとえ誰もが納得する「唯一の正しい答え」が得られないとしてもなお, それを問うことに意義を見出しうるようなものとして 「障害とはなにか?」という問いはあるのです. そして,このような問いを誘発せずにはおかない点にこそ 「障害」という概念の特徴的なはたらきのひとつが示されていると考えることができるでしょう.

概念の「緩さ」を考えることは,そして 「障害」という概念のこのような働きを捉えようとするとき, おそらく不可欠になります. というのも「障害とは何か?」といった問いは, 多くの場合,対象との対応関係を改めて問い直すものとして提示されるからです. たとえば,これまでそれを「障害」であるとは考えたこともないような経験の存在に気づくこと, あるいは逆にこれは典型的な「障害」だろうと思っていたことが実は単なる思い込みであったらしいことに気づかされること, このような変化をもたらす契機として おそらく「障害」という概念は機能しているのです.

ところで,わたしたちが概念の緩さを考えるうえで注目したもう1つの構造に選好がありました. つまり,わたしたち自身の選択行動を適切に表現しようとするとき 「コーヒー」や「オレンジジュース」といった概念のもつ「緩さ」が やはり問題になるということを,たとえば推論の非単調性という問題を通じて 確認してきたのでした.

一見すると「コーヒー」や「オレンジジュース」という概念のあり方は 「障害」と大きく異なるようにも思えます. たとえばそれは「H2O」といった概念と同じ「硬さ」を持つようにも思われます. というのもまず第一にこれらの概念は,だれもが納得するような対象を 目の前に置き,指差すことができるように思えるからです. 実際わたしたちは「障害とはなにか?」とは問うても 「コーヒーとはなにか?」と問うことはまれでしょう. 万が一聞かれたとしても,目の前にコーヒーを置いて, それを指差し「これがコーヒーです」と答えればことは済むようにも思われます.

しかし問題はそう単純ではありません. すでに繰り返し確認してきたとおり, わたしたちはどのようなコーヒーでも「コーヒー」であるとみなすとは限らないからです. たとえば「コーヒー」が欲しいと思っている人に ゴキブリの入ったコーヒーを差し出しても満足されないでしょう. あるいは逆に「ゴキブリは入っていません」と但し書きしてしまうこともまたかえって逆効果であるに違いありません. そして,先のような単純な指差し行為だけでは 「コーヒー」という概念の使用に関して前提される このようなニュアンスを伝えることはできないのです. つまり,ただ「コーヒー」なるものを指示するという行為自体にも それぞれの文脈に応じて既に複雑な要因が作用しているにもかかわらず, あたかもそのような複雑さが存在しないかのように錯覚する程度に, その「緩さ」はこれらの概念の使用において根深く前提されてしまっているのです (そしてこの「緩さ」は,程度の差こそあれ,それが使用される限りにおいて 「硬い概念」においても前提されざるを得ない点にも注意が必要です).

そして,まさにこのような錯覚においてこそ, わたしたちの用いる概念の「緩さ」の,より重要な働きが示されていると考えることができるのです. つまり,概念の使用そのものによってもたらされる実践的な作用とでも言うべき機能がそれです.

もし「コーヒー」にゴキブリが入っていてはいけない, という条件だけが求められるのであれば話は簡単です. すべてのコーヒーを確認して「ゴキブリは入っていません」 というラベルを貼ればよいだけだからです. 重要な点はむしろ「ゴキブリは入っていない」と但し書きしてはいけない, という点にあります. というのもそれは「ゴキブリが入っているかもしれない可能性」を意識させてしまうからです. つまりわたしたちは単に「ゴキブリは入っていない」ことだけを求めているのではなく 「ゴキブリが入っているかもしれない可能性」の存在そのものをそもそも意識せずにいられることを欲しているのです.

このような欲求は,それでは,どうすれば実現できるでしょうか?  答えは簡単です. ゴキブリの存在そのものを消し去ればよいのです. 実際,ゴキブリがいなくなれば 「ゴキブリが入っている可能性」など気にとめる必要もなくなりますし, 「ゴキブリは入っていません」と,わざわざ断る必要もなくなるからです. つまり,「ゴキブリは入っていない」ことだけではなく, そう但し書きされてすらいないようなあり方として「コーヒー」なる概念を用いること, このことは, ゴキブリの存在しない世界のあり方そのものを相手に対し求め, 働きかけることを含意していると考えることができるのです.

もちろん,この世界からゴキブリの存在そのものを消し去ることなどできようはずもありません (し,たとえできたとしてもすべきではないでしょう). しかし,それをあたかも存在しないかのように目の前から消し去る程度のことならできるでしょう. そしてその試みは,少なくともわたしたちの生活環境に関する限り, 十分に成功しているように思われます. 実際わたしたちは, 多くの場合ゴキブリが入っている可能性に心煩わされることなく コーヒーを楽しむことができているはずです.

さて,ここで本題に戻りましょう. わたしたちは「コーヒー」という概念の含む「緩さ」を検討することで, その機能の実践的な側面を確認してきました. 同様の機能は,そして,「障害」という概念の使用においても確認できます. あるいはむしろ,「障害」という概念においてこそ, それはより本質的に機能していると考えることができるでしょう.

たとえば本連載の第1回目に確認した例を思い出しましょう. ここでS(筆者をここでは便宜的にSと書くことにします)は, 鏡のないエレベーターに乗ることが 車椅子を利用している人にとっては障害の経験になりうることを, Nの指摘を通じて理解することができたのでした. Nに指摘されるまでSは,そして, 鏡のないエレベーターに乗ることが障害たりうるなどということを 想像すらしたことがなかったと言えるでしょう. というのもSの周りには, そのような経験をしている親しい知人が,それまで一人もいなかったからです. つまり,Sの生活環境に,そのような経験は存在しなかったのです.

しかしそのような経験は確かに存在します. Nは,そして,Sが想像だにしなかったそのような経験が現に存在し, そのような経験を強いられている人が存在する事実を,Sに指し示したのです. このときSは,自分がそのような経験の存在に気づいてこなかった事実に気付かされるだけではなく, 次のような事実にも思い当たらされます. この事実に気づいていなかったのはおそらく自分だけではない,という事実です. というのも,誰もがこの事実に気づいているのであれば, 鏡のないエレベーターなど,そもそもこの世に存在するはずがないからです.

「障害」という概念が機能するのは,そして,まさにこのような場面においてなのです. Nが強いられている障害の経験は,既に確認したとおり, 建物の設計にかかわった人々が車椅子を利用する人々の生活を想像できなかったことによって準備され, 生み出されると考えることができるでしょう. つまり,特定の経験に対する無知と想像力の欠如こそが障害を生み出す原因になっていたのです. そして,このような経験そのものを浮かび上がらせる概念として 「障害」はまず第一に機能するのです.

「障害」なる概念の機能は,しかし,これだけには留まりません. 無知によって生み出されるこのような経験として「障害」を使用するとき, わたしたちは「障害」の経験の具体的な対象を1つ知る以上の事実に向き合わされることになるからです. すなわち,他ならぬわたしたち自身がこの「障害」の経験を これまで知らずに生活していることが可能であったという事実に,です.

この事実は,わたしたちの単なる無知以上のことを意味します. つまりそれは,わたしたちが「ふつう」に生活している限り, 誰かが現に経験しつつある「障害」を知らずにいることが可能であること,を示しているからです (実際Sは,Nに指摘されるまでこの障害の経験に気付かずにいることができていましたし, 鏡のないエレベーターも現に存在し続けています). これまで何の不自由も感じずに利用してきた環境が,誰かの不利益になりうる, この事実を知らなかったという事実が確かに存在する. ここに,「わたしたちがまだ知らない「障害」の経験が存在しうるだろう」 という,第3回にSが抱いていた感覚が具体的な根拠をもつことになるのです. そして,このような感覚に根拠を与えることこそが 「障害」という概念を具体的に使用することの果たすもう1つの重要な働きなのです.

今回わたしたちは, 概念の使用を通じてもたらされる機能の2つの対照的な側面を確認してきました. 一方は,ある対象の存在を隠蔽するように働き, 他方は,存在しないことにされている対象の存在を明るみに出すように機能するものでした. 対照的に機能する両者にも,しかし,共通していることが少なくとも1つあります. それは,概念を使用することそれ自体が, わたしたちの世界のあり方そのものを規定し,形成するという事実です. つまり,前者においてはある対象が存在しないように, 後者においては隠蔽された経験の存在を可視化するように, それぞれ世界のあり方そのものが形成されていると考えることができるのです.

あらゆる概念は程度の差こそあれ「硬く」もあり「緩く」もあります. もし概念が「硬い」ものとして前者のように使用されるならば,その限りで,その対象は世界において隠蔽され続けるでしょう. しかし同時に,隠蔽されているこの対象を世界の明るみの下に引き出すのもまたこの同じ概念なのです. この概念の「緩い」使用こそが,それを可能にするのです.

このような視点に立つときわたしたちは,そして, 「障害とは何か?」という問いに「唯一の正しい答え」が得られないとしてもなお, それを問うことに意義を見出しうるものとわたしたちがみなしている理由を理解する ひとつの解釈を得ることができます. つまり,このような問いを問うことでわたしたちが問うているのは,おそらく, わたしと他者がともに生活する世界のあり方そのものなのだ, という解釈がそれです.

わたしたちの暮らす世界が,特定の人々だけを暗黙のうちに排除するようになってはいないか?  わたしたちの理解は,これらの経験を十分に捉えられているだろうか?  このような問いを問うことを通じて わたしたちは「障害」の概念のあり方を絶えず変化させ続けていると考えることができるでしょう. そして,「障害」の概念をこのように具体的に使用する事を通じてわたしたちは, 世界のあり方そのものをわたしたち自身にとって「よい」と納得できるものへ 変えていこうとしているのだろうと思われます.

もちろん,わたしたち自身にとって「よい」と納得できるものは, あらかじめ与えられたものではありません. それは,わたしと他者との関わりの中から探り当て,形成してゆくしかないものでしょう. このような営みの一つとして,また「障害とは何か?」という問いもあるはずです.

と同時に, この問いは常に特定の文脈において問われざるを得ないため, そこから得られる答えが場当たり的なものにならざるを得ない点にも注意が必要です. その答えが,別の文脈に照らして判断するとき不適切な思い込みを含みえてしまうということもまた, それを「緩い」ものとして使用する限り,避けることのできない可能性だろうと思われます. 「障害」の概念のあり方そのものが世界のあり方を規定し, 形成するものであることを考えるならば,更に, この問いに対する答えそのものが, 逆にある特定の人々を排除する結果を生み出すことすらあるでしょう. そして,そのような危険を予め知ることは, わたしたちが「ふつう」に暮らしている限り,多くの場合できないのです.

「障害とは何か?」という問いが「唯一の答え」を持つことがありえず, 終りを迎えることもありえない理由の1つは,おそらくここにあります. つまりその問いは, 不適切な思い込みを含まない答えの存在を確証できないため, 既に得られた答えそのものに対し,絶えず, 同じ問いを繰り返し問い直すことを強いるのです. その問いが問い直されるごとに,そして, わたしたちが当たり前に前提している「よい」もまた揺さぶられるのです.


坂原樹麗 (さかはら きり)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

佐藤崇 (さとう たかし)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

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どう考えたらいいのだろう? (倉本智明)

以下はあくまで仮定の話。こういうケースをどう考えたらいいのだろう。

Aさんは障害があり、そのことにかかわって既存の労働市場では、食べていけるだけの値段(賃金)で労働力を売ることができない。そのため、生活保護を受けてくらしている。

けれど、無給ではあるものの、Aさんは自立生活センターで重要な役職を担っており、毎日遅くまで仕事をしている。彼がボランティアで働かなければ、経営規模の小さなそのセンターの運営はたちゆかない。

ところが、生活保護を担当するソーシャルワーカーは、Aさんに、一銭にもならないセンターの職を辞し、たとえ月2万でも3万でも稼げる職に就くことをすすめる。

ここまでのところなら、ワーカーの言い分にも理解できるところはある。賛同するかどうかはともかく、現行の社会経済システムを前提とするなら、それなりに合理性をもった主張であるように思える。(実際には、収入と労働意欲がバーターの関係になったり、ほかにもいろいろとあるだろうから、このような選択が本当に合理的であるかどうかはわからないが)

けれど、つぎのような条件が付加されたとしたらどうだろう。

いまAさんがやっている仕事は、誰にでもまかせられるような単純なものではない。一定の能力と経験が要求される仕事である。とはいってもAさんにしかこなせないといったほどの特殊な仕事であるわけでもない。適切な賃金さえ支払うことができれば、代わりをみつけることもそう難しくないだろう。

ただ、センターの財政状況を考えると、そのポストのために予算を割く余裕はない。だからこそ、Aさんも無給で働いてきたのだ。

本来であれば、充分にくらしていけるだけの賃金がもらえる仕事を、タダでやってくれる奇特な人物を捜さなければならないわけである。人材探しが難航するだろうことは容易に想像ができる。

もしAさんが辞めたあとを埋める人材がみつからなければ、センターの運営はたちゆかなくなってしまう。結果、これまでセンターのサービスを利用することで自立生活を維持してきた人たちのくらしは一気に不安定化するかもしれない。(たったひとりのスタッフが抜けただけであやうくなるような運営体制はいかがなものか、とか、必要な人材に必要な給与を支払うことすらできない制度 or 経営センスってどーよ、といったことも、別途考えるべきではある。が、現にこういう状況にあるセンターがあり、Aさんのような人がいたら……、というのがここでの設定だ。実際に、これに近い事例はいくらでもある)

とはいえ、この時もし、Aさんが勤めるセンターと、量・質ともに同程度のサービスを提供できる事業所が近隣にあったとしたらどうか。

この場合、Aさんがセンターでやっている仕事は、利用者の生活を支えるためにどうしても必要なものなんだから、という理由--個人という単位でみると一見非合理であるように映っても、社会全体を単位としてみるなら充分合理性にかなっている--でもって、生活保護を受けながら無給の仕事を続けることを正当化する説明は説得力を失うこととなる。

とすると、やはりAさんはセンターの仕事を降りて、多少なりとも稼げる職に就くべきなのだろうか? 感覚的には「ちがう」と言いたいのだけれど、ちゃんとした裏づけをもってそう主張することができるかというと……。

ぼくは未だはっきりとした答をもっていない。



倉本智明 (くらもと ともあき)
 東京大学大学院経済学研究科 特任講師

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表象システム(3) (坂原樹麗・佐藤崇)

「表象システム」とその周辺:19

準備は整いました. 今回はいよいよ,表象システムを具体的に構築してゆきたいと思います.

表象システムは,形式的には以下のように定義されます.

Ch を分類Cをコアとした2つの分類AとBの間のチャンネルとする. つまり,Ch は分類AからCへの情報射 f と BからCへの情報射 g によって構成される情報射の集合とする (第7回に確認したとおり,チャンネルの左に置かれた分類(ここではA)をソース, 右に置かれた分類(ここではB)をターゲット,とそれぞれよぶ). 更に L をCを分類として含み Cのタイプを注意の範囲とする理論によって構成される局所論理とする (このような局所論理を,C上の局所論理とよぶ). このとき,このチャンネル Ch および,局所論理 L によって構成される対 R = 〈Ch, L〉を表象システムとよぶ.

チャンネルの説明を加えているためにやや長くなっていますが, 局所論理の構造をもつチャンネルというのが表象システムの正体です. 局所論理をもつことによって表象システムは,そして, 個々の表象作用の「適切さ」を判別することを可能にします. つまり,表象作用を形成するコアのトークンがノーマルであるか否かに従って, それらの表象作用が「適切」であるか否かを判別することを可能にするのです.

表象システムのこの働きを具体的に確認するため, 前々回(第17回)に検討した例を,ここでもう一度思い起こしましょう. わたしたちはここで 「コーヒー」の概念から形成される表象作用を確認したのでした. つまり, 「香ばしい香り」と「苦味」のある「飲み物」それが「コーヒー」だ, という内包をもつ以下の概念をまず考えます.

〈{coffee}, {コーヒー,香ばしい香り,苦味,飲み物}〉

そして,この概念から形成される分類を用いることで, いくつかの表象作用を確認したのでした.

前々回に問題になったのは,以下の表象作用の例でした. つまり,この「コーヒー」の概念によって, それが「ゴキブリ入り」であるか否かを表象しようとする場合です. 「コーヒー」の概念から得られる分類は, 以下で与えられていました.

|=CFC コーヒー 香ばしい香り 苦味 飲み物 ゴキブリ入り
coffee 1 1 1 1 1 1
coffee 0 1 1 1 1 0

そして,このような分類をコアとしてチャンネルを形成する限り, わたしたちは「ゴキブリ入りのコーヒー」を暗黙のうちに排除しているわたしたち自身の認識を 適切に表現することができないのでした. というのも,この表象作用の下では, 「コーヒー」をタイプに持つトークンが 「ゴキブリ入り」のトークンに接続されてしまうからです. この表象作用は,以下の簡略化されたチャンネルによって確認することができます (具体的には, ソース O のトークン z と,ターゲット I' のトークン m が接続されていることによって この表象作用の存在を確認することができます).

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この表象作用は,ところで, 本連載の第16回に登場したロジシャンの指摘と同じ可能性を指し示していることが分かります. すなわち,

でも,ゴキブリ入のコーヒーも,コーヒーですよね?
なんで欲しくないんですか?

という指摘です. ここでは「欲しい」かどうかは問題にしていませんから,後半部分は関係ありません. 関係するのは前半です. つまり,「ゴキブリ入りのコーヒーも,コーヒーですよね?」という部分がそれです. 「コーヒー」の概念そのものは,上で例示した表象作用において既に確認したとおり, それが「ゴキブリ入り」である可能性を否定しません. 先のロジシャンの指摘も,そして,まさに このような可能性の存在を指し示したものでした. つまり,両者は同じ可能性を指し示していると考えることができるのです.

しかしわたしたちは,このようなロジシャンの指摘を, なかなかに飲み込めないものとして違和感を感じていたのでした. それは,やはり16回に確認したわたしたち自身の素朴な判断から導出される制約によって表現することができます. すなわち,「コーヒーにはふつうゴキブリは入っていないでしょ?」という制約です.

コーヒー, ゴキブリ入り |-T

わたしたちはふつう 「コーヒー」に「ゴキブリ」が入っている可能性を思い浮かべることはありません. それはおそらく, そのようなことが多くの場合起こらないことによると考えることができるでしょう. つまりこの制約は, その可能性を現実に突きつけられるまでは多くの場合注意の範囲に入ってこないような (しかし,そうなっていることがあたりまえに満たされていることが求められているような) そういった類いの制約であると考えることができます. ロジシャンによって指し示された推論や概念の働きは,そして, このようなわたしたちの日常的な判断を考慮してくれません. これが,恐らくこの違和感の大きな要因の1つをなしていると考えることができるでしょう. この制約は,そして, 概念や古典的な推論の働きに対するこの違和感を表した制約として解釈することができるのです.

さて,それではこの制約のみを含む理論 T と,「コーヒー」の概念から形成された分類 CFC によって,局所論理を構成してみましょう. この局所論理 L は以下で与えられます.

1.分類: CFC = 〈{coffee 1, coffee 0}, {コーヒー,香ばしい香り,苦味,飲み物,ゴキブリ入り}, |=CFC
2.理論: T = 〈{コーヒー,香ばしい香り,苦味,飲み物,ゴキブリ入り}, |-T
3.ノーマルトークン: N = {coffee 0}

一目見れば分かるとおり,この局所論理 L の下では 「コーヒーにはゴキブリが入っている」という表象作用を実現するトークン「coffee 1」が ノーマルトークンには含まれていません. これは正に,このトークンが 「コーヒーにゴキブリは入っていない」という制約を満たさないことによります. これに対し, この制約を満たすトークン「coffee 0」はノーマルトークンに含まれています. つまり,この表象システムの下では 「ゴキブリ入りのコーヒー」と「ゴキブリの入っていないコーヒー」という2つの表象作用が, ノーマルなトークンによって接続されているか否かという基準に従って 互いに区別されていることが確認できます.

表象システムにおいては,このように, 接続するトークンがノーマルであるか否かに従って,表象作用が区別されます. この区別に従って,そして,表象の「適切さ」を以下のように定義することができます.

ソース A のトークンを,表象システム R =〈Ch, L〉 の表象とよぶ. ソース A のトークンが,コア C のトークン c を媒介してターゲット B のトークン b と接続されているとき, a を b の表象とよぶ. 更に,c が L のノーマルトークンであるとき, a を b の適切な表象とよぶ.

表象システム R の例に戻って考えてみましょう. 局所論理 L のノーマルトークンである「coffee 0」によって接続されているのは 「コーヒー」であるトークン z と「ゴキブリ入り」ではないトークン n でした. このため,トークン z は,この表象システム R のもとで トークン n の適切な表象になっていることが分かります. これに対しトークン z は, ノーマルではないトークン「coffee 1」によって「ゴキブリ入り」のトークン m に接続されています. このため z は トークン m の適切な表象にはなっていないことが分かります.

表象の適切さに従ってなされたこの区別は,そして, わたしたちの日常的な感覚に照らしても,妥当であると考えることができるでしょう. というのもここでは「コーヒーにゴキブリは入っていない」という あたりまえな感覚と整合的な表象作用のみが適切なものとみなされ, 「コーヒーにはゴキブリが入っている」というあたりまえではない表象作用から区別されているからです.

もちろん,この結果は驚くべきことでも何でもありません. というのも,それぞれの表象が「適切」であるか否か判断するためにここで導入したのが,そもそも 「コーヒーにゴキブリは入っていない」という, わたしたち自身の日常的な感覚を表現した制約であったからです. ですからこの結果そのものは,あたりまえの感覚に従って あたりまえに導出された あたりまえの帰結に過ぎません.

重要なのはむしろ,2つの異なった認識作用がここでは1人のエージェントの認識作用として記述されている点にあります. つまり,理論によって表現されたわたしたち自身のあたりまえな認識作用と, チャンネルによって表現された概念による形式的な認識作用,の2つです. 2つの異なった認識作用を同時にもつものとして1人のエージェントを記述するこのような枠組みそのものが, そして, わたしたちが感じる「違和感」そのものをモデルすることを可能にしている点こそが重要なのです.

ここでもう一度思い出しましょう. わたしたちは,ロジシャンの指摘に違和感を持ちつつも, それが「正しい」指摘であることを納得することは少なくともできていたことを. つまりわたしたちは, ロジシャンの指摘に違和感を抱いているとき, それがある種の「正しさ」をもつことは理解できていたはずです. しかしその認識は, 他方でそれと相容れない他の認識の存在を意識させる契機にもなっていました. すなわち,わたしたちの日常的な認識がそれです. そして,この日常的な認識に照らして浮かび上がるズレこそが 「正しい」認識に対してわたしたちが抱くこの違和感を構成していたはずなのです. つまり,2つ以上の異なった認識の間のズレとして,違和感はおそらく認識されていたのです.

2つの異なった認識をもつということ, これは,そして,認識の変化といった現象一般を捉えようとする際に不可欠になる枠組みでもあると思われます. というのもわたしたちは,認識のある側面を変化させるためには 変化させるための基準となる認識をも同時にわたしたち自身の中に持つ必要があるからです. つまり,ある1つの認識に照らして「不適切」だと判断されるもう1つの認識を, わたしたちは改めているはずなのです.

わたしたちは今回,表象システムという枠組みを通して, ある判断に対してわたしたち自身が感じる「違和感」に1つの表現を与えてきました. この枠組みは,そして,認識の変化といった現象を記述する際にも有用であろうことを, 最後に確認しました. 次回以降わたしたちは,この枠組みを用いることで, わたしたち自身の認識をどのように表現することができるようになるか, より詳しく確認してゆきたいと思います.


坂原樹麗 (さかはら きり)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

佐藤崇 (さとう たかし)
 東京大学大学院経済学研究科 特任研究員

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